9.11手記

9月11日から2週間がたち、世間はテロリストにどう報復するかに主たる関心が移りつつあります。しかし私の気持ちはまだ9月11日からなかなか離れられないで取り残されております。行方不明者の親族の方々はより一層そうでしょう。

私は、ワールド・トレード・センター(WTC)から道を隔てて2街区西のアパートに住んでいる者です。そして、当日、事件を家族(妻と6歳小学生の息子、3歳保育園の娘)とともに間近に接し、翻弄された立場から、気持ちの整理のため文章をしたためました。このなかで、他の人の参考に供するところがあれば幸いです。そして、犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈り致します。

2001年9月 白石洋一

(自由の女神と家族 ~アパート傍を流れるハドソン川で))


 

■11日は少し遅めの出勤でした。その夕方、シカゴに出張する準備をしてからアパートを出ました。車輪がついた四角いバックを転がして地下鉄の駅に向かっていました。

(道程地図)

■8時48分。第一機WTC 1(WTC 北棟)に衝突。

WTCを過ぎて、ブロードウェイの角をまがったところで、頭の上からものすごく大きな音が地響きと共にしました。これは、テレビで見た核実験を連想しました。「爆弾、もしかしたら核爆弾が落とされたのかもしれない。もし核だったら放射能を浴びてしまう。妻や子供も浴びてしまう」と思い怖くなりました。

立ちすくんでいると、WTCの方から、薄白いダストがどんどんこちらに向かってきました。

「Run ! ! 」

周りの人と一斉に反対方向に走りました。ダストに追いつかれそうになって、通りの店の人が「入れ、入れ!」と沢山人を店に入れていました。私も混じって店の中にいれてもらいました。

ガラスドアから見える外は、灰色のコンクリートのかけらや粉と書類の紙吹雪でした。店の人も「何だ。紙ふぶきか。」と言わんがごとくに少し苦笑いしていました。

後で考えて見ればブロードウエイのこのあたりは、ヒーローの峡谷(Canyon of Heroes)と呼ばれ、このところ毎年ニューヨーク・ヤンキーズが紙ふぶきに囲まれてパレードをしているところです。私の元いた職場は、ブロードウエイとリバティー通りの角のビルにあり、紙ふぶきのパレードを見たことがありました。店の人はそれを連想したのではないかと思います。また、瓦礫など硬いものが飛んでこなかったことで少し安心したのでしょう。

誰かが「オレは見た。飛行機がぶつかったんだ」と言っていました。放射能ではない。まだ良かった。飛行機事故だ。人は自分や家族に傷害が起こることを覚悟した後、それがないと分かったら、安心する。そのとき他人の傷害のことをを考える余地は余りありません。

 

■8時50分過ぎ。確認へ。

まず、自宅のアパートに電話しました。留守録。まずい、妻は外に出ている。巻きこまれた可能性もある、と思いながら、息子と娘の安全を第一に考えよう、と留守録を残しました。飛行機事故とはいえ破片が学校の側に飛んでいるかもしれないと思い。確認のため、WTCの前の通り、リバティー通りに戻ることにしました。

リバティー通りはWTCの前を通り、私たちの住むアパート(ゲートウエイ・プラザ)までゆるやかな下り坂になっています。リバティー通りから、自分のアパートの方を見ると、ビルや飛行機の残骸が散らばっており、周りは騒然としています。人は唖然としているかパニック気味に逃げていました。私は、道に落ちている紙を見てみました。弁護士事務所のような名前の書類、また、聞いたことのある投資銀行のレターヘッドの書類もありました。これは後に多数の従業員を失った会社であることを知りました。

リバティー通りのWTC2の前に落ちているのは白いコンクリートの粉と書類だけでしたが、WTC1の前近くになると様相が異なってきました。ビルの残骸と肉片です。予想もしてなかったものが視界に入ってきたので最初は目を疑いました。残骸を避けながら通っていく道にぺたぺたと肉片が散らばっていました。皮のついた肉。これがたくさん落ちていました。つぶれた臓器のような塊や、丸い真っ赤な肉に白やピンクの血管がぐるぐる巻きついているものもありました(脳みそだと思う)。足か腕の赤い血肉がついた骨も。見渡すと、くぼんだり、つぶれた自動車が放置され、いろいろな残骸が散乱しています。燃えているものや大きな塊やです。リバティー通りを折れて大きな通りのウエスト・ストリートに入ると、シーツのような布で何か(遺体の一部だと思う)がかぶされてるものもありました。

唖然としながら、WTCの真下を避けながら自分のアパートの方に向かっていきました。肉片になってしまった方々は、飛行機がビルにぶつかって、身がすくんでいる間に、飛行機が迫り、痛いと思う時間もなくバラバラになってしまったのだと思いました。これを見たときはただ唖然としながら歩くだけでしたが、その後、ずっと頭に焼き付いて離れません。

(このような光景は戦争には必ずあるものだと思います。よって、戦争を考えるうえでこのような惨状を伝えた方が良いと思いました。なぜなら今までもこういうことを誰かが誰かにしてきたし、また報復の戦争もこのようなことを相手にするからです。)

「Oh No ! !」と絶叫する声がしました。人が上の方を見上げていました。火のあがっているWTC1です。そこから人が飛び降りていました。手足を、ばたばたさせながら、できるだけ空気の抵抗を受けるように落ちていきました。数百メートル下にあるマリオット・ホテルの屋上に向かっていたと思います。その人が下に打ちつけられるタイミングで私は目を伏して足に力をいれていました。

この人は飛行機がビルにぶつかって10分で、90階から飛び降りて死ぬことを選んでいます。彼は何でこんなことになったのか全くわからないままです。

死ぬのが一番損です。死んだら自分の死の悲惨さ、どんなに辛かったか、どんなに痛かったか、どんなに不当だったか、自分の体験を訴えることができないからです。「何で自分はいきなり、火に囲まれて、こんなに黒焦げでバラバラでにならないといけないんだ」などと、怒りを表すことができない。せいぜい遺族が思いやって訴えるしかない。しかし、思いやる手がかりは、事態の正常化の努力によって、時間と共にどんどん失われてしまいます。また、遺族の方もショックで何もできないでしょう。 遺族は犠牲となった愛する人の死の直前はどんなに熱かっただろう、苦しかっただろう、飛び降りを決意したときはどんなに無念だっただろう、ということしか考えられません。そもそも、本当に悲惨な目にあったら、状況を言葉に表すことはできないのが普通で、ただ泣いたり、わめいたりしかできないでしょう。

 

■9時3分  第二機WTC 2 (WTC 南棟) に衝突。

その時、飛行機の爆音が後ろから聞こえてきたかと思うと、飛行機が目の前にあるWTC2にぶつかっていきました。巨大なビルに斜めから大きな音をたてて、突き刺さり、溶けて入っていきました。そしてオレンジと黒の炎と、飛び散るビルの破片が大きく広がりました。周りの人は大声を上げながらパニックになって走っていきます。自分もパニックになりながら一緒に走っていきます。頭の中は真っ白でした。ここでこれは事故ではなくテロだということだけははっきり解りました。そのときの衝撃はたとえると狂気の人が無実の人をいきなり刺し殺す現場を見てしまったような感じでした。

ウエスト通りを走ってバッテリー・パーク・シティーです。とにかく保育園にいかなければいけません。その時には気がつきませんでしたが入り口につぶれた飛行機の大きな車輪が落ちていたそうです。

娘の保育園の入っているアパートに着きました。娘のクラスは窓から見えるところです。窓から覗くと、娘は友達といすに並んで座っていました。外は見ないようにと配慮されていました。凍った表情のアランダ先生にこちらも凍った顔で目配せして行きました。

 

■9時10分 ハドソン川の川岸へ。

ハドソン川の川辺に来ました。ここには逃げ出した沢山の人がぞくぞくと集まっていました。周りから飛行機がまた襲ってこないか。しかも、今度はWTCなどから逃げ出した黒山の人だかりを襲ってこないか、時々後ろのハドソン川の上空をびくびくして振りかえりながら、WTCを見つめていました。

WTCは崩れるとは誰も思っておらず、WTCの非常階段もさしたるパニックにならなかったようです。そして階段を掛け上げる消防隊員に道を譲る余裕もあったようです。もし、崩れるかもしれないと思ったらパニックになって将棋倒しになっていたかもしれません。

WTC1の上部のいたるところの窓から沢山の人が助けを待って首や身を乗り出しています。ある人は布を振っています。その中から数分に1人から数人ずつ、ポロポロと人が落ちていきます。だいたいは手を広げて落ちていきます。他にも、手足を平泳ぎで泳ぐように落ちる人。足をクロスし身を堅くして落ちる人。空中で回転しながら落ちる人。足から落ちる人。力なく人形を落としたように落ちる人。一緒に数人で落ちる人。スカイダイビングのようにある方向に向かおうとしながら落ちる人もいました。落ちる人のいるフロアーもその下の地面も地獄だったと思います。飛び降りた人にとって地面が近づいてくる死の直前はどんなに怖いことでしょう。人が地面に打ちつけられるのはまるでスイカを落とした時のようだったと後で知りました。また、後で想像するに、エレベーターなど閉じ込められた空間で落ちるところもなく、じっと死を待つのも生き地獄であったでしょう。

自分が見つめていたのは、WTC1でしたが、後からクラッシュがあったWTC2も同じように人が落ちていったそうです。

何で救助のヘリが出動しないのか、とイライラしていました。これだけの人が必死で助けを求めているのに、なされるがままです。一機のヘリが近づいたり遠ざかったりしていました。しかし、すぐいなくなりました。たなびく噴煙の他に空には何もなく、まるでやられっぱなしで沢山の人を恐怖のどん底に放置しているように見えました。

後でわかったことですが、その間、消防隊員は階段を駆け上がり救助しようとしていました。崩れるとは思っていなかったのでしょう。また、ポンプで、ハドソン川から水を汲み、消火も試みていたようです。今から考えれば、相手に対し対処方法が合っておらず、沢山の消防隊員の命を犠牲にしてしまったと思います。

事故発生からこの1時間が経つまで、米国の大統領などの政府の長、NY知事やNY市長は何を指示したのでしょうか。非常に気になります。直後の1時間の対処は、その後数時間後、数日後の対処より何百倍の効果を持ち得ます。翌日9月12日に6人の埋もれた人を救出できましたが、その後生存者は瓦礫の下からは発見されていません。事故直後1時間の対応で数百人の命を救い得る可能性があると思います。 極端に言うと、危機直後の時に緊急事態の指示することができるのはリーダーだけであることから、危機直後にリーダーの資格が問われます。マンハッタンには多数の出動可能なヘリがあったはずです。私は、メディアの評価ほどにはニューヨーク市長や大統領を評価していません。なぜなら一番大事な1時間に彼らの仕事を全うしていなかったからです。それはその後どれだけ仕事をしても挽回できません。

私は自分は飛び降りなくてすむ場所に身をおきながら、人の死を見ている自分になんとなく嫌悪を覚えながら、目を伏せたり、後ろからまた飛行機が襲ってこないか見たり、妻が雑踏にいないか無為に探したりしていました。

 

■9時40分 妻と息子に再会。

妻も携帯は持っているはずですが、何度かけても全く携帯はつながりませんでした。川辺リはそれでなくともつながりにくいのに皆がかけようとしているからです。無線(Walkie-Talkie)に替わる携帯電話はこういうときに便利だと思います。なぜなら話したい人は多分近くにいるからです。しかし、なんと偶然にも妻が息子と、息子の友達のへイナック、そのお母さんのメイがいるところを見つけました。妻はへたり込んでいました。メイに元気づけられている様子でした。当日、学校に用があったその帰りに、一機目がWTC1にぶつかったのを見て仰天し、すぐ、息子を学校から連れて出てきたのでした。ここで無事で会えて良かった。息子も無事だった。でも、ビルからの人の飛び降りは止まらず、そのただならぬ光景と周囲の騒然とした中で息子も呆然としていました。

娘は保育園に残したままでした。 WTCはいずれ衝突があったところから上だけが燃え、そして、なんとか消火される。であればこんな混乱の中に娘は出さない方がよい、と今考えれば非常に楽観的に考えていまいました。

私の得た教訓:事故に遭ったら悲観的に悲観的にものを考えよ。特に、事故直後は意識して悲観する。というのは、事故直後はまだ日常の思考のベースから離れられず、日常の枠内でものを考えてしまいがちだと思うからです。例えば、テロ事件を目の当たりにしながらもやらなければならない仕事のことを考えてしまう。ひどくなるとそれを片付けてしまおうとする、などです。こうした日常生活ベースに戻そうとする慣性が働いたまま、先を読むとどうしても事態を楽観視し、判断を過ってしまいます。

 

■9時58分 WTC2 倒壊。

爆弾が落とされたような大きな地鳴りがしました。そして、WTC2か、その他のビルから真っ黒い煙と、その中に鉄やコンクリートなどの塊がぐるぐる回りながらこちらに向かってきます。私ら3人は周りの人と一緒に必死に南側のバッテリーパークの方へ走りました。テロは何度も飛行機をビルにぶつけてきている、と思いました。テロはこの辺りが全壊するまで攻めてくるのだと思いました。そして、この黒山の人だかりもいずれ狙われると思いました。アメリカ政府はハイジャックされたこれら飛行機を迎え撃ちできないのか、とも思いました。

マンハッタンの南の端、バッテリーパークに着きました。ここからは海です。もうこれ以上逃げられません。たくさんの人がいつでも海に飛び込めるように柵を越えて海の方に連なっていました。娘を保育園に置いたままです。妻が娘のことが心配で心配でならず、泣いています。

保育園の入っているアパートとWTCとの間にはワールド・フィナンシャル・ビルがあります。ワールド・フィナンシャル・ビルの谷間から塊が保育園に命中するか、ワールド・フィナンシャル・ビルが倒壊しない限りは大丈夫かとも思いました。また、倒壊までは時間があるので先生がアパートの奥に逃げると思いました。よって、恐れるのは塊が保育園に命中する場合ですが、その可能性は低いと思いました。

 

■10時28分 WTC1 倒壊。

また大きな地響きがしました。また飛行機がビルに衝突したと思いました。黒い煙が多数のアパートの間をみるみるうちにこちらに向かって埋めてきます。煙の中を妻、息子と私の3人で逃げながら、今度は娘のビルもやられたかもしれないと思いました。

娘の命に何かあったかもしれないと思うと何ともいえない込み上げる感情と、こんなことをした相手への怒りと憎しみで一杯になりながら走り、煙のなかで3人で伏せていました。 本当に家族の一員を失うかもしれないという事態に、その命の尊さを思い知りました。そして、このときの犯人への怒りと憎しみの感情は自分のいままでの人生で一番強いものでした。

教訓:家族はいち早く固まれ。 家族がばらばらだと、お互い安否が心配でなりません。また元気であることがわかってもやはり心配です。状況はどんどん変わるからです。(1)心配だと次の行動を起こせない。また、(2)お互いがお互いを探そうとして、お互い自分の身を危険に晒してしまう。一家全滅の危険があってもやはり家族はいち早く固まって行動すべきです。 そして、子供が2人以上いる家庭では、どちらがどの子供を責任もって引き取るか予め決めておくべきだと思います。

 

■10時50分 娘の保育園へ。

少し落着いたところで私は、娘を確認に行くことにしました。親として人間として当然行くべきだと思いました。娘の最悪の姿に遭遇する可能性を覚悟しました。一方そのような事態を見る恐怖で自分はふるえていました。妻と息子をバッテリーパークに残し、娘の保育園に向かいました。ぱたぱたと逃げてくる人とすれ違いながら向かいました。煙でアパート街はもうもうとしていました。コンクリートの粉と、紙やビルからはがれた鉄やアルミが10センチ~20センチ積もっていました。ぱっと見は大雪のような様子でもあり、また、核戦争後の死の街のようでもありました。しかし、足元は熱くはなく、歩くことはできました。

保育園に着きました。外からドアをドンドンたたくと、奥から人がでてきました。先生は粉塵で全身真っ白の私を見ておびえましたが親だとわかってくれました。皆一番奥の部屋にいました。電気はつかないのでろうそくを用意し、水も溜め置きしていました。父兄の人も何人かいて子供を抱いていました。そして、娘はいました。ただならぬ状況に娘の表情は硬くなっていました。私は娘をしっかり抱きました。尊い命を確認しました。

外は粉塵で囲まれていることを考え、娘を連れていきませんでした。私は、ただ、娘の無事を確認してそれを伝えに妻が待っているところに戻りました。ここでも娘を引き取らなかったということは私の状況判断の甘さがありました。

 

■11:00 対岸のニュージャージーへ。

この頃から、フェリーやタグボートがバッテリーパークに召集され、逃げている人々を対岸のニュージャージーに送り始めました。やっと政府が我々を救いに動きはじめた、と感じました。 この頃から、事件が通常の消防隊員や警察官で対処するものではなく、特別の対処がなされるものだとして動きが出てきたように思います。

私はもう一度娘のところに行って一緒に対岸に行こうと思いました。保育園に戻りました。しかし誰もいませんでした。娘は先生に連れられ避難したようです。しまったと思いました。そして、その帰り私は途中警察に呼び止められ、怒鳴れてボートに乗せられ対岸のニュージャージーに避難させられました。ボートからは気味悪い黒い煙の塊が空を覆っているのが見えました。対岸のニュージャージーに着きました。警察が、すぐ会えるはずと言っていたのに避難所には妻と息子は見当たりません。はぐれてしまったのです。

 

■11:30 ~ 6:00 家族が一つに。

半べそをかきながら一時避難所の沢山の人ごみを隅々探しました。ボートから次々に降りてくる人の列を切ない気持ちで探しました。 探している途中に会ったメイが貸してくれた携帯電話で、ついに、妻と息子がいるところを知りました。 まだバッテリーパークでした。真っ青な空にワートレから出るもくもくとした煙が出てくるところを、あの中にいる妻と息子に申し訳ないという気持ちでいっぱいで見ていました。 ようやく彼らがニュージャージーに着き、ビルのロビーで待機しているところで会うことができました。

あとは娘です。ずっと、娘とはぐれていたのですが、留守録に残っていた娘の先生の携帯電話に何度も何度も電話してつながった先がニュージャージーの米軍基地でした。

そこにやっと着いたのが夕方6時でした。先生は楽しい雰囲気をずっと維持してきてくれたのだと思います。子供達は楽しそうに先生や友達と遊んでいました。娘にとっては今日は遠足だったかのようでした。

4人で再会してやっと家族で安心できました。

妻が感激しながら「今日はどうだった」と聞いたらこう得意そうに答えてくれました。

「ドーンって大きな音がして雪がふってきたの。お舟にのってー、バスにのってー、ここに来たの。 マミィ知らなかったでしょう。」

妻(マミィ)は「知らなかったから一生分心配したのよ 」。

私たちの顔を見てニッコリ笑った彼女の中には恐怖の色は見えませんでした。大人でも大きなショックを受けたあの日、娘の心に暗い傷を残さないように努力してくださった先生はじめ沢山の人に感謝しています。

その後わかったことですが、このナーサリーの子供の親が3人犠牲になっております。この事件のことを残された子供にどう伝えたのでしょうか。また、友人の同日頑張ってくれた先生は、保育園の経営が成り立たなくなってレイオフされました。ただ、先生も気持ちの整理がつきづらく、しばらく休みたいようでもありました。

 

■当日の夜とその後

当日は、ニュージャージーの高校の体育館で大勢の被災者の方々と過ごした後、友人のご厚意でそのお宅に泊まることができました。

私たちのアパートは、WTCに面していることから窓ガラスが割れる、残骸や砂が入りこんだり、11日当日にぼやがあったりしたなどの被害から当分、再入居は無理のようです。また、WTCがあったところにぽっかり空いた空、グラウンド・ゼロ(爆心地)が丸見えの立地、人の体の一部が割れた窓 からビルに入っていたこと、ビル中が冷蔵庫の中のものの腐った臭いで充満している、など心理的にも速やかな再入居には抵抗感を感じます。また、人の体が焦げる匂いを連想させるふすぶったような匂いが街中を覆っており、その物質の毒性の問題、また、ダストの中のアスベスト(WTCは70年代建築でアスベストが使用されている)やPCBの問題などがあります。

直後は、自分の家族が全員生きていることだけに感謝しておりました。子供は宝です。元気であれば自分達はいやされます。彼らにはこれからの将来があるのです。妻と、「ぼく達は他の難民に比べたら恵まれているね。高等難民だね。」と笑ってました。しかし、すぐに生活のセットアップをどうしていくか、会社の仕事をこなしながら、子供の学校、そして、借り住まいをどうするかの家庭の問題を自分を頼りにこなしていかないといけません。学校はやはり借り住まい校舎をめぐって落着きません。よって、私たちの借り住まい場所や生活パターンも落着きません。 その中で、帰りたくないという理由やオフィスが使えないので転勤せざるを得ないなどの理由で、いままでやっと築いてきた近所の友人が沢山去っていきます。 この喪失感も大きいものがあります。

息子は、1週間後自ら画を書きました。2本のWTCから火が出ており、そこから人が飛び降りているところ。それを何人もの人が見ている画でした。続けて当日の様子を細かな描写で一気に25枚ぐらいを描きました。彼がこんなにあったことを絵に書いたのははじめてです。しかも自分から書き始めました。彼にも相当ショッキングな事件だったと思います。ずっと消化しきれない胃の中の得たいのしれないものを一気に吐き出したようでした。妻も眠りが浅く、子供を失う悪夢をみるようです。いつも夢で失うのはなかなか会えなかった娘だそうです。 私も事件後1週間で相当やせました。 大きな音におびえます。特に飛行機が空を飛ぶ音が、何かにぶつかるのではないかと想像し恐怖をおぼえます。これをトラウマとまで言うかどうか分かりませんが、少なくとも被災者の心は傷ついており、また、傷つきやすくなっていると思います。特に状況について想像力が足らない言葉には敏感になっております。

(WTCが倒れてくるところ)

(WTCが燃えて、人が飛び降りているのを川岸から見ているところ)

ただ、感じ方に温度差があるのは仕方がないことだとは思います。自分の問題となった人にとっても、知覚できること、つまり建物がないことがあの日以降のことを無理やりでも思い出させる引き金になります。しかし、実際自分自身の問題と捉えた人以外の人にとっては、この事件について実際に知覚できるのは、大勢の人が一瞬で亡くなったということより、場合によっては建物が消えたということが一番大きいことになるのかもしれません。「映画のようだ」という表現を聞くと、自分には非常に抵抗がありますが、言っている人にとっては正直な感想なのでしょう。

ショックでボーと当日のことを考えることが多くなにも手につきません。何で自分たちがこうならないといけないのかとのやり場のない怒りと、会社の通常通りの仕事がこんな中でこなせるかというプレッシャーや、恐らくいずれはくる再報復テロにより誰かが災難にあうだろうとの緊張感のなかで、自分たちの生活を立ち上げないといけません。また、こんな文明都市が一瞬の内に戦場になることを身をもって知り、携帯ラジオ、携帯電話のスペアバッテリー、学校指定避難場所など緊急連絡先リストを常にもちあるくようにしました。自分と妻の生命保険も子供が成人するまで十分になるよう金額を上げました。

やはりアメリカは豊かな国です。同じ島(マンハッタン島)の下の方で大きな事件があっても、そこ以外は少なくとも見かけは、いつも通りの生活をしています。おいしいものを家族や友人と食べ、出勤し、学校にいく。家では暖かいお湯が出る、大きな冷蔵庫は動いている。そのなかで被災者はどんどん世間から取り残されている気がするときがあります。(アパートの様子)

我アパートのWTC向き。自分も傷つき、沢山の人が死んでいくのを見て泣きながらも頑張ってたっているように見えました。この姿をみるとこのアパートを見捨てるのはつらかった。翌年4月にこのアパートに家族で戻りました。

 

(WTC崩壊後の鳥瞰写真)

(アパートの位置)

2001年年末に放映されたテレビ映像